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映画レビュー② 『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』 ネタバレあり

この映画、やたらいろんなところで評判が悪くて、逆に気になってたりでもやっぱりつまらないなら観ないでもいいかなと思ったりと、しばらく迷った末についに観ました。いやー観てよかった。ラストの解釈を視聴者に委ねることで様々なメッセージ性を感じられたのが良い。

「シーンを区切らない手法から、拳銃自殺未遂のところで主人公は死んでいたのでは。この映画は大衆向けのハッピーエンドへのブラックジョークだ」って解釈を見かけてなるほどありそうだなぁと思ったけど、それだと主人公がかわいそうなので主人公が救われるほうの解釈を考えました。

 

主人公の超能力は、主人公の持つ自信の暗喩

主人公は若いころにバードマンという映画で一躍有名になりましたが、その後はパッとせずに演劇を続けながらかつての名声へ縋っており、また大成したいと思っている人物。バードマンへの執着で、「お前には才能がある」と囁いてくるバードマンの幻覚を度々見ている。サイコキネシスのような超能力がある・・・?

 

ちなみに主人公役のマイケル・キートンは『バットマン』の主演で、バードマンもバットマンがモチーフ。この他にも実在の映画や役者の名前がポンポン出てきてリアリティがあるのがこの映画の特徴。このリアリティがあるからこそ、主人公のサイコキネシスがすごく浮いてます。そしてこの超能力の描写を見てみると、

「事故をみせかけて三流役者の頭にライトを落とす超能力を使ったが、三流役者は主人公に対して訴えると言ってる」「空を飛び回ったあと、タクシー代を請求されている」

というシーンがあります。つまりこの超能力とは主人公の妄想で、実際は

「三流役者の頭を主人公が殴った」「タクシーで街中をうろついた」

というのを主人公が超能力があると思い込んで解釈していたのです。超能力は他人に見えてないし、超能力のことを人に話しても当然「何言ってんだこいつ」という顔をされてます。

ここで視聴者も他の登場人物も「超能力なんてあるわけがない。主人公はおかしい」と思うわけです。この「特別な才能への嘲笑」を視聴者にも抱かせるのが上手い。

超能力の思い込みとはつまり、主人公が抱いている「自分の特別さへの信仰」を表しています。

主人公は売れない役者となってしまいましたが、それでもまだ「自分はできる奴だ」「評価されるべき人間だ」「特別な才能がある」と思っています。このことを「誰もお前なんて見ていない」「また売れようなんて思うな」「特別な才能なんてない」などと登場人物たちに貶されまくります。まさに超能力を嘲笑う構図と同じ。主人公が健気に頑張ってる姿だけ見せられていたら視聴者は「どんなに貶されてもきっと大成するはずだ、頑張れ!」という気持ちになるかもしれませんが、頑張りつつも超能力なんて妄想を抱いてる姿を見せられたので「頭のおかしいやばい奴だ、現実がわかってない、大成するわけない」と思わされるわけです。これにまんまと引っかかった自分はラストに「良い意味で裏切られた!」と思いました。

 

演劇により殺される「バードマン」。そして「無知がもたらす予期せぬ奇跡」。

登場人物たちに(そして視聴者からも)見放され一度自信を失いますが、一部の同僚や妄想のバードマンに鼓舞されて主人公は頑張ります。

酷評をしてくる評論家に「リスクなしに行動しやがって」と悪態をつき、三流役者や道端で演劇をしている人の「演技に幅を持たせたんだけどやりすぎたかな」という言葉は鉄拳制裁もしくは無視によって否定をしています。

主人公は名声を得るために「やりすぎたかな」なんて保守的な考えを持たず、人々に酷評されるリスクを自覚して行動しているのだとわかります。酷評に怯え一度は自信をなくした主人公ですが、最後にはしっかり決意を見せたのです。

演劇の直前には「20頭のヒョウが2頭のライオンを笑った」と何度も呟いています。「大勢の弱いものが少数の強いものを笑ったからって気にすることはない」という意識の現われだと思います。

いつも通り「名声を得る」という目的のために、しかしいつもとは違う熱意を持って主人公は舞台に立ちます。

 

映画の終盤。大勢の観客を前にした演劇のラストで、主人公は妻を間男に寝取られた男の役を演じます。

「なぜいつも私は愛を請う側なのか」と述べる主人公に妻役は「あなたは愛される価値がある」と一度は優しい言葉を投げかけます。「君の望む俺になりたかったが今は俺以外の誰かになりたい」と述べると妻役は「もう愛していない。これからも愛することはない」と本音を言います。主人公は「俺は存在しない。ここにさえ」と台詞を言ったあと小道具の拳銃で自殺の演技をして幕切れ。・・・という段取りのはずが、主人公は事前に小道具の拳銃を本物と入れ替えており、演技をしながら本当に自殺をしようとします。頭から血を吹いて倒れる主人公を迫真の演技と勘違いした観客たちは戸惑いながらも絶賛の拍手。(賞賛を得たいがために、自己愛のために自分を殺そうとする行いは「愛は人を殺そうとしない」という三流役者の台詞への否定なんでしょうか)

その後、銃弾が鼻を掠めただけで一命を取り留め入院している主人公の元に新聞が届きます。そこには「無知がもたらす予期せぬ奇跡。彼は無意識に新たな劇の形を切り開いた」と評論家から主人公への絶賛が。本人が拳銃を入れ替えたことは一部関係者しか知らず「主人公は銃が本物だと知らなかったからこそ素晴らしい結末になった」と評論家は考えたのでしょう。テレビをつけると大勢のファンが主人公の復帰を待ってる姿が。バードマンの幻覚は何も言わず、主人公はその幻覚に別れを告げます。そして病室の窓から身を乗り出す。直後に病室に入ってきた娘は部屋に誰も居らず窓が開いてるのを見てまた自殺かと思い下を覗きます。そのまま上を向き何かを見てにっこりと笑いエンドロール。

 

演劇の台詞を主人公になぞらえて考えると、

「なぜいつも賞賛を得たい気持ちでいなきゃいけないんだ」(なぜいつも私は愛を請う側なのか)という疑問の芽生え、

それに対して「賞賛される価値があるんだ」(あなたは愛される価値がある)という甘い言葉、

「観客の望むように演技していたが今はそうしたくない」(君の望む俺になりたかったが今は俺以外の誰かになりたい)という今までの自分の否定、

「賞賛されていない。これからも賞賛されることはない」(もう愛していない。これからも愛することはない)という現実の認識、

「賞賛を得たかった今までの自分はもう存在しない。舞台の上でさえ」(俺は存在しない。ここにさえ)という演劇に居場所はないという悟り。

最後には「名声を得たい自分」を撃ち殺したのだと思います。名声を得るために始めた劇のラストシーンで。

(主人公のライバル的存在に「舞台の上でならどんな自分にもなれる」という名役者がいますが、舞台の上で自分をなくす主人公への伏線というかヒントだったのかな)

 

病室のシーンで、主人公が有名になって大興奮した同僚は「望みどおり有名になれて嬉しいだろう。なんで黙ってるんだ」と問いかけ、主人公は淡々と「ああ望みどおりだ」と答えます。

嬉しそうじゃないんです。賞賛なんてどうでもいいという態度。

主人公は賞賛を求める自分を殺したことで賞賛を得ました。バードマンの誘いに屈したことでバードマンと決別をしました。主人公は無知とも言えるがむしゃらさで、予期せぬ奇跡の結果を得たのです。バードマンを演じたあの頃のように。

タイトルの「バードマン」とは名声の味を知ってしまい成長を止めてしまった状態、無知がもたらす予期せぬ奇跡」とはがむしゃらさによる名演技で名声を得た状態、「あるいは」とはそのどちらか片方でしか成りえないという意味。「バードマン」によって名声を知ってしまった主人公は「無知がもたらす予期せぬ奇跡」は中々起こせなかったし、拳銃自殺未遂というがむしゃらによって起きた無知がもたらす予期せぬ奇跡」で名声を得た主人公は「バードマン」のように名声を喜ぶことはできないのでしょう。

顔の上半分に包帯を巻いた入院中の姿はバードマンの仮面姿にそっくり。主人公は名声を得たことで「バードマン」になれたのです。しかし主人公はその包帯を自分で外します。このシーンこそ、「バードマン」になれたのにそうであろうとしなかった主人公の内心をわかりやすく表してたのかなと思います。

最後に娘は空を飛ぶ主人公を見たのだと思います。主人公があると信じていた超能力(特別な才能)は妄想ではなく本当にあったんだという示唆です。

 

かつての栄光にしがみつく甘えと、才能を信じることや評価されることへの恐れ。それらを乗り越え、行動に至る勇気と熱意の大事さが伝わる映画でした。

 

 

 

 

余談ですけど、最近『嫌われる勇気』って本が流行ってるらしいじゃないですか。「嫌われるリスクを恐れて行動しないより嫌われるリスクを犯してでも行動すべし」みたいな内容って聞いたんですが、まさしくこの映画の主人公(それとライバルの役者)みたいじゃないですか。その本と合わせてこの映画を観たら中々面白いんじゃないでしょうかね。

 

さらに余談ですが、その本は読んだことないけども「嫌われる勇気」って言葉は前々から常々抱いてた言葉でして、

4年ほど前にツイッターを始めてすぐに「フォロワーが多い人は大胆な発言をする人が多いなあ」と思ったんですよ。そして大胆な発言をする人に対して「いいぞもっと言え」と味方する人たちや「何言ってんだ恥を知れ」と敵対する人たちが同じくらい居て、「人から好かれようとすると好かれた人数と同じくらいの人に嫌われるんだなぁ」と思ったんです。当時は人から嫌われたくなかったから、好かれようとしてると思われそうな発言というか人に影響を与えそうな発言は控えてました。人に影響を与える発言って自分の中でほぼの全ての発言が該当してて、挨拶するのすら「返事を求めてる承認乞食だ」と思われそうだし、「カップ麺おいしい」と発言するのすら「普段はジャンクフードを食べない小金持ちアピールだ」もしくは「退廃的な生活をしてることをアピールしてクズぶってるんだ」とか思われそうだし・・・とか、とにかくなんでも深読みされてるだろうって深読みしてて。でもやっぱり危険がないように振舞ってると楽しいことも何も起きないんですよね。人が人を悪く言うときって自分の不利益に我慢できないときで、人から悪く言われない努力というのは他人の利益を追求して自分は損をし続けようとする努力になると思います。楽しいはずがない。なので最近はガンガンいろいろアピールして人から嫌われてやるぞという気持ちでなんやかんやしてるつもりです。ブログを始めたのもその一環。まずは「何をしてもどこかで誰かに嫌われてそう」という考えから脱しようと思います。